sigurros_tetsuのブログ

事実をもとにしたフィクション

自律した機関② 鈴木さん、スケッチ

 母が毎日家にいるようになってから、カフェで過ごす時間が増えた。家が小さいくせに吹き抜けなこともあり家族のプライバシーは筒抜けで、オンラインでの授業や諸々の作業をこなすのには不便だったのだ。母はステージ4の卵巣癌であることが宣告され、手術を終えて退院したばかりだった。入院を機に仕事を辞め、まだ外出できるほどの体力もない母は、家族の誰よりも早く起き、居間にあるテレビを点け、スマートフォンをいじる。そしてだいたい一日の三分の二くらいはそうして過ごす。無害なドキュメンタリーでも見ればいいものの典型的な50代の主婦らしくセンセーショナルなワイドショーやら小うるさい芸能人が笑い続けるバラエティー番組やらばかりを観るので、母が起きている間は家にいたくなかった。

 俺は今日も例のごとく昼頃に起きると冷凍のパスタを食べ、最低限の身支度をしてから家を出た。空は曇っていた。気温は低かったが、湿度が高く、不快な熱気が身体にまとわりつく。車庫のシャッターを開け、自転車を後ろ向きに引き出しながら、ついネガティブになっている自分に気づく。午前中の授業は、また出損ねてしまった。欠席が何回目だったかも思い出せない。そんなことを考えながら、身体は俺の意志通り動くというより、自動的に動いているような感じで準備を進めた。

 自転車にまたがり、イヤホンを取り出していると右手からラジオの音がすることに気がついた。向いの鈴木さんが縁側に腰かけていた。挨拶をすると、鈴木さんはこちらを振り向き、ニヤリと笑った。

「君、あれかい?そろそろ就職だろう」

「そうですね。そろそろ就活を始めます」

「何にするとか決めてるの?」

「いや、全然。ぼんやりと出版かな、とか思ってますけど」

「出版は大変だよ。もっと安定した仕事がいい。そうだな、うん、鉄道とかな。俺の甥っ子がな、九州大学卒業して、九大だよ、名門の、九州大学。それで、九州大学卒業してからJRに入ったんだよ。今はそれで総武線の運転手してんの。総武線ね、東京の。嘘じゃないよ。本当の話。だから鉄道だな」

「なるほど。そうですよね。鉄道、潰れないですもんね」

 俺がそう言うと、鈴木さんは下手な愛想笑いをしてから、何やら深く考え込んだ。俺は早く出発したかったが、沈黙はあまりに重く、うまく切り上げることが出来なかった。それからしばらくしてから鈴木さん口を開いた。

「俺の会社な、潰れてないよ。鉄道じゃないけどな。本当だよ。名前も変わってない。周りの一部上場の銀行は潰れたよ。A銀行って知ってるだろ?潰れてないんだよ。本当の話だよ、これは。…確かに鉄道は潰れないよな。でもなんだっけあれ、JR北海道は危ないよな」

「そうですね。北海道はほんと貧乏くじというか、人がはいらない路線多いですもんね」

 そう言うと鈴木さんは妙なものを見るような眼で俺を見てから、またわざとらしく声を出して笑った。曇り空のせいか鈴木さんの顔は妙に浅黒く、生気がなかった。俺は、そろそろ行きます、と言って会釈するとイヤホンを首にかけたまま坂を下った。