sigurros_tetsuのブログ

事実をもとにしたフィクション

GEZANの美しさについて。あるいは個的な物語と普遍の緊張関係について

1

GEZANの『狂(KLUE)』を聴いた。集中して聴いたのは半年ぶりのことだ。全編をBPM100で揃え、まるで一枚で一曲の長編作品であるかのようにシームレスに繋いだ43分間。真っ赤な歌詞カードに、「安倍」「トランプ」と時の権力者を実名で記したひりついた歌詞。はっきり言って重い。重すぎる。普段聴きできる音楽ではない。発売と同時にCDとLPを購入した私はその実験性と実践的コミットメントを評価しつつも「啓蒙(上野千鶴子を始めとする自身の目的のためならポピュリズムすら利用する醜いそれ)」にすら見える過剰なステートメントについては留保をつける、という穏当な立場を取った。

しかし知っての通り、状況は一変した。そしてコロナ禍という下品な言葉で形容されるこの時代に聴くこのアルバムはそれ以前の多くの政治的、思弁的言説、またポリティカルな音楽が説得力を失う中で、圧倒的なリアリティを持って響いた。

不覚にも私は涙を流していた。「泣ける音楽/映画」という形容に飽き飽きしているあなたには誤解を与えるかもしれない。当然このアルバムはそういったポルノではない。しかし事実として私は涙を流した。そのことを記録しておきたかった。なぜ私は涙を流したのか?それはこの音楽があまりに美しかったからだ。あまりに脆い美しさ。一歩踏み間違えればこの世で最も下劣な音楽になりうるのに、決死の思いで断崖絶壁に留まり続けるというその美しさ。それに私は涙を流したのだ。


2

ロックミュージックは個人的なものだ。そしてロックミュージックは政治的で、そのうえ理想主義的なものだ。この2つのテーゼを満たした音楽を私は愛する。大文字の「ロック」は必ずしもこのテーゼを満たさない。だから今はGEZANの言葉を借りて、このテーゼを満たす音楽を「レベルミュージック」と呼ぼう。

レベルミュージックの条件は、そのまま説得力のある言説の条件にもなる。自身の個別の生を無視した匿名の「正しい」言葉も、自身の生の衝動だけに突き動かされ、普遍へ辿り着こうとしない言葉も信用に足らない。個別的な生に生まれるこだわりと普遍への意志。その緊張関係の中にある言説のみが説得力を持つ。

どちらか一つを満たす音楽あるいは言葉はこの世に溢れている。

ただ個人的な言葉。誰にも共有されえない個人的な言葉。あるいは誰にでも共有可能、あるいは誰でも自己を代入可能な全てに開かれた言葉。

政治的で、理想的な言葉。正しい言葉。顔の見えない言葉。インテリの知的遊戯。あるいは匿名のネトウヨ。そのどちらにも一切の価値はない。

分かるだろうか。その両方を兼ね備えることは簡単なことではない。緊張関係。つまりいつ崩れるかわからない危険な言説。GEZANの音楽はその緊張関係の上に成り立っているだろうか?そう言い切るのはまだ早計だ。しかし明確にGEZANの言葉はそれに対して自覚的で、であるから危うく、だからこそ美しい。

 


3

B面一曲目「赤曜日」。


「40分間で脳をハッキングする/内側から歴史を書き換える/このプレゼンテーションは令和の兵器になる/全ての構造をこの場所で破壊する」


この過剰なコミットメント、言ってしまえば洗脳に意識的な宣言から始まるこの曲の最後ではこう歌われる。


「神様を殺せ/権力を殺せ/組織を殺せ/GEZANを殺せ」


この宣言が初めてこのアルバムを聴いた時、私が評価に留保をつけた理由の一つだった。「GEZANを殺せ」。この表現ははっきり言ってダサい。予防線みたいだからだ。「最終的には俺のことも信じるな」。こんなステートメントははっきり言ってロックの文脈ではありふれている。しかしこの表現はアルバム全体の歌詞を追っていくと必然的なものであることが分かる。そのためにまずはロックバンドと宗教の話をしなくてはならない。


4

スーパースターとそのファンの関係はしばしば宗教に例えられる。盲信的なファン。そしてその影響力を利用する商売、あるいは政治的意志。近年ではGreen DayのBillie Joe Armstrongがトランプ政権の支持者は自分のライブに来るなという旨の発言をしたことがリベラルな音楽メディアで取り上げられたことと記憶に新しい。そしてその取り上げられ方は決して否定的ではなかった。終わっている。はっきりと悪手であってその点でBillieが阿呆であることを誰かが指摘しなければならないのに。

このBillieの発言は先に取り上げた上野千鶴子を代表とする「啓蒙」である。つまり自身の影響力を利用し、民衆を愚かなものと決めつけたはっきりとしたポピュリズムでしかない。

頭に血が上っていなくて、知的なスターたちが自身の影響力と宗教じみたファンとの関係を嫌った例は過去に多くある。坂本慎太郎がライブ活動を積極的に行わなくなった理由が正にそれだし、ブルーハーツが解散した際に甲本ヒロトが「なんか宗教みたいになっちゃってやだった」と発言したことは有名だ。

そう、ブルーハーツ。解散して以降もヒロトマーシーのコンビを継続し、なのに時々バンド名と他のメンバーを入れ替えるブルーハーツ。その姿勢がまず重要になってくる。

ロックバンドは宗教になり得る。しかし、バンドで活動しているということは「解散」ができるということだ。これは個人名で活動しているアーティストではなかなかできない。解散をすることでポリティカルなメッセージを発信していた媒体を捨て、一から始めることができる。これはあまり指摘されないバンドの強みであり、面白いところだ。

しかしそれでは当然不十分であって、解散した後もオウム真理教以降のアレフのように教祖を失った宗教は存続しうる。つまり解散するだけでは徹底的ではない。

GEZANに話を戻そう。「赤曜日」。こんな歌詞もある。

 

「教祖も階級もない宗教/imaginationだけの連帯/数分の間だけ集結する部族よ」

 

この数行を見て分かる通り、GEZANはロックバンドが宗教であることを意識的に引き受けている。

さらに現代の政治哲学の文脈を多少追っていれば分かる通り、このラインはネグリ/ハートの「マルチチュードhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/)」と似通っている。しかしマルチチュードは連帯後の道程を軽視した楽観論に基づいており、事実急速に力を失ったのであった。

それは宗教改革前夜のカトリックにおける教会という「連帯のための連帯」の装置の挫折によく似ている。しかし2010年代においてはプロテスタントは誕生しなかったのだ。

 

5

そもそもなぜGEZANが連帯を叫ばなければならないのかという問題は後に回すことにして、まずは「いかにして連帯のための連帯を避けながら、連帯を可能とすることができるのか」について考えよう。

ここで生きてくるのがGEZANがロックバンドであることなのであり、初めに引用した「GEZANを殺せ」というラインなのだ。

GEZANのボーカルであるマヒトゥザピーポーはソロでも歌手活動を行なっているが、ソロでの歌にはGEZANほどの強いポリティカルなメッセージは見られず、何よりその歌声はどこまでも柔和だ。ソロの作品は失われた過去、遠い未来への優しいセンチメンタリズムで満ちており、その一面がGEZANでの攻撃的な彼と同様に非常に重要だ。つまりマヒトゥザピーポーはポリティカルな主張をする時にGEZANというバンドでの活動を選んでいる。これでまず第一段階としてGEZANが完全に本人の手を離れた宗教になった際に、そこから脱出するためのポッドが用意された。

そして問題の「GEZANを殺せ」だ。正直言って今も判断に困ってはいる。もしかしたらこのセンテンスには「連帯の中心に置かれた神としてのGEZANを殺す」という意味しかないのかもしれない。だとすればGEZANの主張は安直なマルチチュードの提言でしかない。しかしどうもそれだけではないように思うのだ。

確認しよう。GEZANはロックバンドだ。レベルミュージックを演奏している。個人的な語りと普遍への意志。そのバランス感覚だけを頼りにカルトスターであり続けている。ではGEZANを殺したら何が残る?それは個人としてのマヒトゥザピーポーを始めとしたメンバーたちだ。

マヒトゥザピーポーは本来とてもセンチメンタルな一面を持った人だ。彼のソロでの歌や小説作品には常に過去への愛と後悔がある。「GEZANは殺せ」。そのセンテンスでこの歌は終わる。そして「Free Refugees」というイントロ的トラックを挟んだあと始まるのは「東京」だ。この歌の冒頭ではこう歌われる。

 

「東京/今から歌うのはそう/政治の歌じゃない/皮膚の下35度体温の流れる人/左も右もない/一億総迷子の一人称」

 

このラインもまた引っかかった箇所だった。この歌が、このアルバムが政治でないなんてことはあり得ない。なのにGEZANは「政治の歌じゃない」と歌う。なぜか。

結論から言おう。GEZANを殺した後に残るのはマヒトゥザピーポー、私、あなた。そういった徹底的に迷子の個人だ。実際、「東京」さらにそれに続く「I」(まさに「私」=個人だ)では、マヒトゥザピーポーのソロに通じるような個人的なセンチメンタリズムが初めてはっきりと映し出される。

今、ギリギリの緊張関係にあったバランスが崩れた。個人的なこだわりと普遍への意志のギリギリのバランスが、ほんの僅かだけ個人に傾いた。GEZANは本当に危ういところにいる。このままでは崖の下に落ちる。しかしそうまでしてGEZANは「GEZANは死んだ」と歌った。「政治の歌じゃない」と歌った。そこに込められたメッセージこそまさに「私たち」ではなく「私」であれ、ということだ。

SDGsだとかサステイナビリティだとかが叫ばれて久しい。個人のことだけじゃなくて、これからの世界のことを考えよう。持続可能なこの世界を愛そう。それは真っ当だ。完全に正しい。しかしそこに胡散臭さを感じてしまうのは「私」に優越していると喧伝される「私たち」だ。それは全体主義ではないか、となぜ偉い人たちは言わないのか。戦後のリベラルが唯一守り続けて来たものはそれじゃなかったのか。つまり「私」の「私たち」への優越。

GEZANは徹底的に政治的に見えるこのアルバムで最後に、徹底的に個人であることを宣言する。私は私だ。私たちには回収されない。連帯のための連帯ではない。私たちのための連帯でもない。あくまでそれぞれの「私」のための連帯。それこそが重要なのだ。

その意思表示によってバランスは僅かに傾いた。しかし私の目にはGEZANが必死で崖にしがみついているのが見える。落ちる、落ちるぞ、と誰かが叫ぶ。しかしGEZANは「I」でこう歌う。


「綺麗な詩をよんで/ファンタジーに逃げ込むのはもうやめた/現実は今ここだよ/戦いの日々よ 傷だらけのあなたよ/もう少し戦いは続くだろう/恥ずかしいこの歌がいつか歌えなくなるようなボクらになったら/お願いだよ 殺して/ちゃんと笑えるだろう/ちゃんと笑うんだよ/そのために生まれてきたんだもの」


ここにしかない現実に生きる覚悟。そして傷だらけになりながら笑う覚悟。GEZANのメッセージは結局口に出してしまえば陳腐にすぎるそんな言葉に落ち着く。しかしここまで読んだあなたに彼の言葉が陳腐に聞こえるだろうか。サブスクでもなんでもいい。一度このアルバムを頭から聴いてみて欲しい。


GEZANは43分間のこのアルバムをこんな言葉で閉じる。


「幸せになる それがレベルだよ」

 


追記

「そもそもなぜGEZANが連帯を叫ばなければならないのかという問題は後に回すことにして」なんて書いておきながらすっかり触れるのを忘れていた。そこにはマヒトゥザピーポーの個人的な物語が関係しているのではないか、とだけ書いておく。それ以上のことは過去のインタビューでもなんでも読んで欲しい。すいません。