非意味的な世界における倫理の実践としてのリズム
ジョルジョ・アガンベンは「リズム」という語が、ギリシア語で「流れ去る、過ぎ行く」を意味するρέ ωに由来することを示した上で、一方でこの語には「この流れのうちにひとつの分裂、ひとつの中断を導 入しているように思える1」と指摘する。音楽作品における典型的なリズムについて考えてみると、それは 自明である。一定のリズムの反復は我々を陶酔させ、そこに「ずらし」としての変拍子やブレイクが導入 されると緊張が生まれる。そのような作用は、本来無限に流れ去る時間に対して、リズムが有限の区切り を設ける作用を持っているからにほかならない。
ところで、我々にとって最も身近なリズムは心臓の鼓動であろう。1 分間に 60 回から 100 回が正常値で あるこのリズムに、我々は慣れ親しんでいる。人間は急激な運動によって脈拍が早まり過ぎれば身体の危 機を感じるし、一定のペースが保てなければ自らの恒常性を保てなくなる。このような恒常性の仕組みは、 スピノザのコナトゥス概念と接続される。コナトゥスとは事物が恒常性を保つための仕組みである。当事 者研究の実践家である熊谷晋一郎は、人間におけるコナトゥスを維持しようとする機関を試験的に「内臓」 と呼んだ2。一定のリズムを刻む心臓の鼓動がその最たるものであることは疑いの余地がない。
スピノザはコナトゥスに十全に従うことが善であるとした。素朴に考えると、心臓の鼓動がコナトゥス と同一視されるのであれば、人間はその一定の鼓動を維持し続けるべきである。しかし人間はそのリズム を乱して走るし、複雑な変拍子を含むプログレッシブロックによって自らのリズムを崩されようとする。 このような事態に対し、人間のコナトゥスを複雑化することにより応答することが可能かもしれない。先 の例はあまりに素朴に過ぎ、走ることが、あるいはリズムを乱す音楽を聴くことが、コナトゥスを維持す るために必要な場合もあるではないか、と。これはあくまでコナトゥスを生への固執と捉える立場である。
一方でスピノザ研究者の國分功一郎は、コナトゥスを単に生への固執として捉えず、時には死の欲動と 同期しさえするものであるとする仮説を提出した。例えば「深夜にラーメンを食べてしまい、健康を害す る」という例について考えてみると、その栄養摂取行動は、人間の生物としての起源を辿ればコナトゥス の働きによると言える。しかし人類史の中で特筆して栄養を摂取しやすい現代においては、栄養摂取と生 存にはズレがある。このズレは単なるコナトゥスの誤作動なのだろうか。國分はフロイトのタナトスの議 論を援用しながら、「コナトゥスを生への固執と捉える必要はない」という仮説を提出する。國分によれば 「さまざまな疾患を通じて死のうとしている生物がいるとき、コナトゥスもまたその死へと向かう過程に 寄り添っている3」。自分の外部のリズムに同期しようとすることは果たしてコナトゥスの一部なのか、あ るいはコナトゥスの外部なのか。これは非常に大きな問題であるように思われる。
國分の仮説をより深く理解するために、ニーチェの思想に立ち寄る。ニーチェによれば、人間は仮象の 世界に固執せざるを得ない存在であり、混沌の中で無意味に生成し続ける真の世界を拒む。その世界の非 意味的な仮象性を積極的に肯定する立場こそ、彼の積極的ニヒリズムなのであった。ニーチェにとってそ の積極的ニヒリズムは苦しみに満ちたものである。ニーチェの主張によれば、人間はあくまで現状の仮象 の世界に留まろうとする。この働きは先に提起された「コナトゥスを生への固執として捉える立場」と対 応する。その「自然」な固執に抗わなければ、仮象に積極的に向き合うという実践は不可能である。その実践のための芸術として、ニーチェは「生成の過剰」というモデルを提示した4。そのモデルにおいては、芸 術は存在に固執することなく、常に生成に向かい、さらにそのモチベーションは常にポジティブである。 ニーチェにおいては、この仮象の世界への固執と、その世界への恨みなどによるネガティブなニヒリズム は退けられる。この積極的ニヒリズムの議論に立ち寄ったあとでは、先の國分の仮説は、コナトゥスを単 なる生命への固執から解放し、ニーチェ的な積極的な世界の肯定を可能にするものとして立ち現れる。
しかし一方で、先の夜食の例を見れば分かる通り、我々はむしろ、あまりに安易に存在から遠ざかろう とする。ニーチェにとっては、存在に固執することが自然であり、積極的ニヒリズムは苦しみに満ちた反 自然的な実践であった。しかし現代においては我々の生活は勝手に過剰へと向かう。この事態には、資本 主義社会が深く関わっている。ドゥルーズ=ガタリが指摘したように、資本主義は、かつての社会形態に おいて信じられてきた質的な価値や対立を解体し、全てを貨幣という量的な価値に還元した。我々はニー チェに指摘されるまでもなく、この世界における「意味」が揺らいでいることを知っている。そして spotify、 ネット広告、その他全ての我々を取り囲む表象は、加速度的に私のコナトゥスを過剰へと誘う。であれは ニーチェがディオニソス的な「生成の過剰」を目指したことと、我々が過剰な生成へと向かう音楽を聴く ことは、(同じように初期のワーグナーを聴いていたとしても)、異なるモチベーションに寄っている。む しろ我々は圧倒的な過剰の装置に晒されるという事態に受動的に釘付けにされ、疲れ果てている。
コナトゥスとしての内臓と Spotify のアルゴリズム、アルコール、向精神薬、それが私に訴えかけるその アフォーダンスは相互干渉しながら我々を過剰へと誘い続ける。コナトゥスはもはや我々の生命維持とは かけ離れた化物と化しさえする。Spotify によって強化され続ける過剰なリズムに、また、向精神薬、ドラ ッグ、そしてアルコールに我々は乗っ取られる。我々の直面する困難とは、ニーチェのそれとは違い、少 し気を抜くと内臓と、内臓の傾向を補強する身体の外のあらゆるアルゴリズムにコナトゥスを乗っ取られ、 過剰へと向かわされるというの恐怖と、そこに釘付けにされ続けるという苦しみである。
そろそろスピノザに戻らなくてはならない。スピノザはコナトゥスに十全に従うことを善だとしたが、 外的な刺激によって感情を乗っ取られることを強く批判した。エチカは喜びの倫理でなければならず、そ の「喜び」とは受動的に生まれる感情ではない。それは「自由で能動的な感情」であり、理性を鍛えること で生じるものなのである。単に加速的で過剰なリズムに感情を乗っ取られることは、エチカとは程遠い。 そのことはニーチェが積極性を善としたこととも響きあう。受動性に身を任せるだけではやはりだめなの だ。我々は Spotify のアルゴリズムから逃れ、自身のリズムを崩す、未知のリズムに向かう必要がある。そ のために必要なのは、勉強である。自身の心地よいリズム、またそれを加速させるアルゴリズムの「外部」 にある異物としてのリズムに触れ、理性を持って、それを理解し、自身のリズムを常に変革すること。外 部としてのリズムの有限化の作用により、カオスな世界を絶えず再意味化し続けること。そのようなリズ ムへの実践こそが、この社会においてのエチカになりうるのではないか。