sigurros_tetsuのブログ

事実をもとにしたフィクション

「シラケ」に汚染される私の意味世界。あるいは「レコードブーム」と私。

 

1.アナログレコードには本当に「意味」があるのか?

アナログレコードがブームだ。しかしこのブームは何もアナログ情報への回帰、というようなものではない。どういうことか。

アナログレコードという媒体は俗に「ぬくもりがある」だとか「自然だ」とか「音質がいい」などと言われるが、これは事実的な意味においては真っ赤な嘘である。筆者はオーディオに関してはほとんど門外漢であるが、それでもわかる間違いを簡単に挙げる。

まず、それは本当に「アナログ」情報なのか、という問題がある。「アナログ」レコードと言っても録音やマスタリングといった行程において、ある時期以降はまずデジタル処理が行われており、記録の方法がアナログであっても、大元のデータはデジタルである場合がほとんどだ。さらにアナログレコードを聴く人々の中には、USBケーブルや無線ランを使用している者さえいる。大元のデータも再生環境もデジタル変換されたもので、記録媒体だけがアナログである、という場合がありえるということだ。

次に人間の認識能力の問題がある。例えば音楽ストリーミングサービスの音源(主に256kps/秒)と、CD用に圧縮された音源、ハイレゾと呼ばれる巨大なデータを持つ音源を聴き比べ、音質の違いを認識できる人間は一定数いるだろう。しかし、ハイレゾ音源と「アナログ」で記録されているレコードを比較し、後者の方が「より自然だ」と認識できる者などどれほどいるだろうか。第一に(アナログ媒体においては顕著だが)完全にニュートラルな視聴環境を整えることが困難である(埃によるノイズや針、カートリッジの状態によって簡単に音質は変わる)し、そういった環境を可能な限り整えたとして、現代の技術においては、もはや人間の耳ではアナログと区別がつかないような洗練されたデジタルデータを家庭で楽しめる環境が整っていることは否定できない。

以上は、恐らくオーディオに少しでもこだわっている人間ならわかりきっている問題である。それでも彼らが(あるいは私が)アナログレコードをつい買ってしまうのは、人間の認識が事実認識だけによるものではない、ということを示している。

 


2.事実認識と意味認識、また意味の創造

 デジタルとアナログの区別がつかない時代。また、これ以上デジタルデータの解像度が上がっても人間の認識能力では「意味がない」時代。我々が生きているのはそういう時代だ。

では人間は自分の認識能力に合わせた媒体で情報を摂取すればそれで満足で、それ以上の技術開発(ハイレゾ、4K,etc…)には意味はない、のだろうか。

現実にはそうなってはいない。人々は常に、より高画質、高音質、高解像度の媒体、データを求め続け、それに飽き足らず存在しないかもしれない本物の、「アナログ」音源を求める。

先ほどアナログレコードに関する「ぬくもりがある」だとか「自然だ」という評価は「事実的な」意味においては真っ赤な嘘だと断じたが、これは必ずしもそれらの感想が間違っているということを意味しない。アナログレコードは音がよく、自然だ、というその信憑が、またそれを裏付けるかのようなレコードの手入れや針を落とす、というストリーミングサービスでは得られない手間が、「自然でぬくもりがある」音を生み出している、と言ってしまっていいのではないか。

 それに対して、「それはあくまで感じ方の話であり、実際に音が変わるかのような記述は悪質なレトリックだ」というような反論がありえるだろう。しかし、私はあえて「音は実際に変わる」と言いたい。繰り返しになるが、我々の認識には「事実的」でない側面がありえる。その構造を示すことが先の反論への応答になり得るだろう。

 ここでは広く理解されている例として、液晶テレビの宣伝文句について考える。最新の液晶テレビは4Kであったり8Kであったりするわけだが、私たちはその「事実的な」単位の基準に基づいて、それを欲望しているのだろうか?液晶テレビの広告に目を向ければそうでないことが分かるはずだ。そこに並ぶ文字は「圧倒的な鮮やかさ」だとか「未知の驚きへ」だとか、我々の主観によってしか測れないはずの「意味的な」認識への言及で多くを占められている。もちろん客観的なデータとしての画素数だとかへの言及もあるのだが、優先されるのはあくまで「私」の感じる「鮮やかさ」であり「驚き」である。というのもどれだけ高い数値が表示されていても実際に私がそれを感覚によって認識できなければ「意味がない」だろう。そこでの客観的な数値は「この媒体は事実的に解像度が高い」という信憑を形成するのに一役買っているに過ぎない。

 注意すべきであるのはそれらの認識は実際に私たちに認識される「ようで」なければならないのだが、「事実として」認識されているわけではない点だ。私たちの感覚は当然のことながら全能ではない。広告による視覚的、言語的イメージや文化人、芸能人といったある種の権威による推薦によってあるものがとても良いものである「かのように」見えることは否定できない。そしてそうであっても広告は何も嘘をついているわけではない。実際に「事実として」画質は向上しているのだ。たとえそれが人間には認識できないような高度なものであっても、事実として画質が上がっているのなら、それを上手く宣伝して売り込むのは当たり前のことだ。

 このように、世間で何かを表す際に用いられる「事実的な」言葉と我々の認識は必ずしも一致しない。いかに事実が事実として声高々に喧伝されようが、我々は事実の集積としての世界を俯瞰で眺めているのではない。我々は意味の世界を生きており、その世界においては「感じ方」が「事実」にまして「意味を持つ」。

そうであれば「実際に音質が向上している(と私に認識されなくても)」、「音がいいはずだ」という信憑が生まれれば私の「意味世界」において音は良くなる、と言えるのではないか。事実、レコードブームには愛好家による「自然な音」「良い音」「柔らかい音」といった評価に基づく信憑が大きく影響しているはずだ。愛好家の再生環境や大元のデータへの拘りは捨て去られ、「レコードは音が良い」という信憑だけが残る。私もそのブームに乗せられ、数年前にレコードの収集を始めた人間の1人だ。

そして「信憑」が適切に作用している限り、聴取者の意味世界において「音は実際に変わる」。これが先ほどのセンテンスの意味である。

 


3「シラケ」について

 しかしレコードマニアたちは常に不安に苛まれている(ような気がする)。第一章で述べた通り、アナログレコードを収集している者の多くはレコードが「事実として」音がいいわけではないかもしれないことを知っている。これでは「音がいいはずだ」という信憑は成り立たず、音は「良くならない」。その状況下でマニアたちは(少なかとも私の観測範囲では)以下の三つの立場をとりうる。

一つ目は「アナログレコードは「事実として」音がいい」と素朴に信じている群だ。この認識については第一章で反論を行ったが、ある意味最も幸せな人々なのかもしれない。

二つ目は一般に流通しているアナログレコードの欺瞞を認め、太古の「純粋な」アナログレコードを求めたり、可能な限り音質を上げるためにプレイヤーのセッティングに執心する群だ。彼らを最も誠実な求道者と見做すことはできようが、もはや一般的な愛好家とは一線を画しているし、何よりよほど資金がないと徹底することは難しい。

三つ目は自身の再生環境やレコードのデジタル処理による音質の限界を認め「あくまでレコードというメディアが「モノ」として好きで、音質は二の次だ」と嘯く群だ。ラディカルな立場である。もはや音質は関係ないのだ、ただ好きだから好きなのだ、と言ってしまえば、なるほどどんな批判にもびくともしない。しかし一度この立場をとれば、もはやレコードの音質は「良くならない」。それは単なる骨とう品と、それを模したレプリカに過ぎない「モノ」になる。筆者に最も近い立場はこれだが、はっきり言って「シラケ」た群だと言える。

 しかし様々な側面において我々はこの「シラケ」と直面せざるを得ない。我々は資本主義社会において欲望を煽られ、せっせと消費活動を行う。しかしその社会構造においては私は資本家に搾取され「消費させられている」のであり、私が「本当の求めているもの」なんてものはほとんど存在しない、という直感に襲われたことはないだろうか。私はそのシラケを振り払うかのように消費の求道者として消費を徹底するか、「そんなことは分かっているよ」と冷笑的なポーズを決め、自身の仮構された欲望の元、シラケた消費を行うしかない。そう、資本主義から逃れるすべはないのだ。

 


私の固有の意味世界は「シラケ」によって汚染されている。もうレコードを買っていい気分になることも自然にはできない。その状況を好転させる一手は私の手の内にない。

私はもはや前章の三つの立場のうち、三つ目の立場を取らざるを得ない。この構造を自覚した以上、私は盲目的な消費者にはなれないが、存在しないかもしれない意味を補強し、自身の目を眩ませるパワーも資金力もない。

意味をもたない私の執着や欲望を再び「意味化」するための議論は哲学史上にいくつもあるが、私の今のこの無力感を代弁してくれるそれはないように思う。

圧倒的な無意味さと向き合った先に何があるのか。私はその遭遇を先延ばしにしながら今日もレコードを買い、お決まりの圧倒的な無力感に包まれる。「ただレコードという「モノ」が好きなだけなんだよね」と嘯きながら。