sigurros_tetsuのブログ

事実をもとにしたフィクション

走り書き 自殺について

「自殺するからお前らの人生で一番幸せだったこと語ってくれないか」という2chの有名スレッドを久しぶりに読みたくなって読んだ。

自殺したいという主に対し、他の人たちが、もっと生きてたらいいことあるぜ、と言ってみたり、最近合コンで巨乳とやれたから俺は最高だぜ、と言ってみたり、かまってちゃん早く死ね、死ぬ気もないんだろう、と言ってみたり匿名掲示板のいつもの調子で書き込む。

その後主はなんやかんやあって自殺をやめるのだが、それでみんなに祝福される。社会の底辺のインターネットのゴミダメなような場所でも生は祝福されるのだ。それは情景として対比が効いていて端によかった。

俺は中学生の頃そのスレッドを読んで「世の中には意外と優しい人がいるんだな」あるいは「2ちゃんで言い争ってる人も死にそうな人に優しくするくらいの優しい気持ちはあるんだ」みたいな素朴な満足感を得た気がする。それから暖かい布団に入って寝たんだろう。俺は今にもまして素朴だった。それが少し羨ましい。

人は、自殺しそうなひとを見たら、止める。俺もきっとそう。でもそれはきっとその人の「命が大事だから」とかじゃなくて、「なんだかんだこの世に生きていた方がいい」という信憑を補強するために、つまり自分が生きていることを肯定したいがために止めたいだけなんだろう。俺はそのことをもう知ってしまっている。そういうメタ認知が成立してしまっている。しかしそれは不思議と苦しくはない。そのようなメタ認知の上で先のスレッドを読んでも、掃き溜めの中で生が祝福される情景に立ち会うことに少し心を動かされる。それは俺が彼らを馬鹿にしきっていて、あたかも神が天から血を見下ろすように微笑ましく思っているからだろうか。

いやそうではない。それでは結局のところ俺は少しも救われないではないか。俺はやはりあのスレを読んで少し救われたのだ。どんな社会的な要請や幼少教育や胡散臭い「本能」なるものが影響しているのかはわからないが、俺はやはり生きることに執着している。それを肯定されたがっている。そこ価値判断はない。ただ執着がある。

仏になるために執着を捨てるなんてくそくらえだ、と思う。思ってしまう。それはきっといいことでも悪いことでもなくて‥いや価値判断はないのだった。

言えるのは一言だけ。「生命万歳!」そういう気分だ。