sigurros_tetsuのブログ

事実をもとにしたフィクション

母が癌になってからの話

1

繰り返し見る夢があった。俺は何かに腹を立てている。猛烈に。それから、ヤケになっている。食器棚から皿を取り出し、地面に叩きつける。一つ一つ丹念に壊す。何度も踏みつける。他のものも壊すが、基本は食器が中心だ。食器棚が空になってしまうまで、何度も叩きつける。その棚には母が趣味で集めていたものが多く納められている。父がそれを見ている。父は困ったように微笑んでいる。俺はそれが気に食わない。だから大声を出す。しかし声は真空で発されたように、どこにも届かない。空気が震えない。俺は更に腹を立てる。その辺りで、目が覚める。

腹立たしさは起きてからも残っている。ひどい罪悪感を同時に覚える。取り返しのつかないことをした。一線を超えてしまった。そういう感覚がある。しかしそれは夢だ。その感触は少しずつリアルなものではなくなっていく。それから俺は水を飲んで、もう一度眠る。いつもそうだった。


母が癌になった。ある日から腹痛を訴えるようになり、しばらくの放置のあと、検査を受け、卵巣に癌が見つかった。幸いなことに転移はないらしく、卵巣と子宮を取り除く手術を受ければ半年ほどで回復するという。

しかし俺はそれを話半分で聞いていた。症状については母が直接俺に説明したが、なんとなく一つ一つのセリフが嘘くさく聞こえた。それに、母は進行状況について何も言わなかった。例えばステージ1であったら、安心させるためにそういうだろう。それを言わなかったということはそれなりに重篤なのだろう、と俺は解釈した。

母は手術の前日まで家にいるが、寝込んでいるので家事は父と手分けしてこなさなければならない。俺は花屋でのアルバイトのせいで腰を痛めていたから、比較的腰に負担の少ない炊事を担当することにした。バイトの日は父に弁当を買ってきてもらい、その他の日の夕食とたまに昼食を作る。

コロナの影響で大学がオンライン授業になっていたのは好都合だった。授業と課題、アルバイトと炊事を並行してやるのはそれまでの自堕落な長い春休みと比べると忙しくはあったが、なんとかこなせていた。母はなにしろ癌なので、色々と頼まれたことは文句を言わずこなすが、俺にしてやれることなど限られている。日中はカフェに逃げ込んで勉強をしたり本を読んだりあるいは何もしなかったりする、という日課は変わることがなかった。


先の夢を見なくなったことに気がついたのは、そんな生活にいくぶん慣れた頃のバイト中だった。バイト先の花屋は繁忙期の母の日を過ぎて、潮が引いたように客足が止まっていた。作業を急いでこなす必要がないので、ぼんやりと考え事をしながら進める癖がついていた俺は、モップを特殊なマシーンで回転させて洗いながら、その夢と母の病を意識的に結びつけてみた。つまり、俺が母の大切な食器を壊していたことと、母がいま蝕まれていることを。そこに罪悪感を覚えたりするのではないか、と期待して。モップの回転とそれに伴う水流の渦を眺めていると、自分が少し浮き上がるように感じる。集中。カモン、罪悪感。

しかし集中してみても罪悪感は少しも感じなかった。それから、なんで俺は自分から罪悪感を感じようと努力しているのか、と当たり前のことに気がついて、やめた。モップは渦を作り続けている。俺はそれをしばらく眺めてから、そろそろ次の作業をしなくてはならないな、と考えていた。


バイトが20時半に終わり、翌朝食べるパンを買って帰宅する。父はさっき帰ったところだったらしく、割引になったスーパーの弁当をつまみながら、テレビを観ていた。母はもう寝ているらしい。俺も並んで、弁当を食べる。テレビは、勉強系のyoutuberとしても活動している、高学歴が売りの芸人が勉強法をプレゼンする、というものだった。プレゼンはさすがに上手く、引き込まれる。それが少し不快でもある。父は不快に思ったりしないようで、いちいち感心してテレビに相槌を打ちながら、熱心に聞いている。普段だったら腹が立って席を離れるところだが、今日は特に何も感じず、黙ってテレビの画面を観ていた。それから風呂に入り、恋人と少し電話したあと、寝た。