sigurros_tetsuのブログ

事実をもとにしたフィクション

朝ドラみたいな花屋でバイトを始めた話③ 近況


3-1

バイト先の花屋では「こやま君」と呼ばれている。俺の本名は「おやま」だが、最初に「こやま」と呼ばれた時に訂正し損ねて、それっきりだ。少しだけ仮名であることがなんとなく愉快だったのでもう一月以上、そのまま「こやま君」であり続けている。


ゲド戦記」の中で名前が重要な要素だったことを思い出す。たしか、作中の人物たちは誰もが仮名を名乗っていたはずだ。「本当の名前」というやつはある種のパワーを持ち、名前を所有することはその人を所有することにつながる、とかそんな話だった気がする。


あまり現実に引き付けて解釈するものでもないだろうが、なんとなく分かる。たしかに仮名で呼ばれるのと本名で呼ばれるのはずいぶん気の持ちようが違う。仮名で呼ばれるのは気楽だが、なんとなく孤独だ。俺と花屋との距離感もやはり仮名的なものなのだろうか?花屋との距離が縮まれば、仮名で呼ばれることに居心地の悪さを感じるようになるのだろうか?


3-2

花屋の繁忙期は例年、5月の初めだそうだ。なぜか。母の日である。クリスマス前のケーキ屋よろしく、母の日前の花屋は殺伐としている。しがないバイトである俺も流石にやることが増えてきて、5/3から5/11まで9連勤が決まった。大学がなく、遊びに行く用事もない今だからできることだ。


卒論のことは頭の片隅にあるが、今はなんとなく文献を探すフリをしてお茶を濁している。とてもじゃないがバイトと卒論の両方とがっつり向き合う体力はない。まずは体力をつけ、毎日予定が入っている状態に慣れることだ。そのためにもこの連続勤務を社会復帰の足がかりにしようと思っている。


53日。いまいち調子が上がらないのを感じながら出勤し、店内を簡単に掃除した。次にゴワゴワした感触の特殊な紙を指定の大きさに切る仕事を言いつけられたが、右利き用のハサミをうまく扱えず、ろくにこなせなかった。店長と上司のNさんに呆れられる。情けなかった。かなり凹む。左利き用のハサミをロッカーに置いておこうと思う。一度会ったことのある先輩のSさんが俺の仕事を引き継ぎ、俺はSさんと並んで母の日用の花の説明用紙を作る。


Sさんに、大学生?とか、ここ入ってどれくらい?とか聞かれる。作業に集中しながら出来るだけ愛想良く返答する。それから、ここ長いんですか、と訊いてみた。全然長くないよ、1年半くらい。

1年半が長くないという感覚に少しくらっとする。学生にとってそれは短くはない期間だ。Sさんと俺とでは流れている時間が明確に違う。そのギャップに少しやられる。


Sさんは恐らく40代くらいで、独身らしい。ここのバイトは土日だけ週二回入っている。週二回だと、次の週来た時何するか忘れちゃうのよね、と言う。

それから、なんで哲学科に入ったの、と聞かれる。少し考えて、なんとなくですね、と答える。あまりにつまらない回答だと思い、数学を使える文系学科の受験方法を探していて見つけた感じなので、本当に成り行きです、と付け加える。


そう、とSさんは言う。あれなの、君、普段友達と話す時もそういう感じなの、と続ける。どういう感じですか。訊いてみる。なんというか、ねえ。Sさんは苦笑する。俺はあいまいに笑って、今は作業に集中しているのでそのせいかもしれないです、と言ってみる。それで、会話は終わる。

少しすると店長が来て、何してるの、先に掃き掃除して、と言う。俺は特に反抗するでもなく、ただ、はい、とだけ言う。


あれやこれやを考えながら、掃く。水を含んだ葉っぱが地面にへばりついて苦戦する。最近は箒で取れないものは諦めて手で拾うことにしている。その方が早い。少しずつ色々な作業を自分なりに効率化できてきている。これも社会化か、と思ってみる。


Nさんがいらっしゃいませ、と言っているのが聞こえて、俺も繰り返す。彼女は常に元気いっぱいだ。足が悪いそうで少し左足を引きずって歩くが、過剰に思えるほどテキパキと動くのと声がよく通るので誰よりも存在感がある。


今日はNさんのそのテキパキと動く様が、どこか威圧的に感じられる。あたかも私は誰よりも一生懸命働いていますよ、あなたは一体何をしているの、と言っているかのようだ。被害妄想なのはわかっているが、そう思うとうまく作業ができなくなる。同じところを何度も掃いて、なかなか取れない葉っぱを手で拾うことに思い当たれない。それで全然進んでいないことに焦る。マスクの下の呼気が妙に湿っぽくて不快だ。

一度手を止めて、深呼吸をする。落ち着け、大丈夫だから。意識して丁寧に仕事を再開する。それから少しずつスピードを上げていく。俺は少しずつ調子を取り戻していく。


少し先の蕎麦屋の前あたりで中学生くらいの男の子が数人、警察に捕まっている。それを眺めるともなく見ていると、あちゃーあいつらなんかやったな、と横から声がする。

見たことがないゴマ塩頭の男性だった。俺に話しかけているのか、独り言なのか微妙なラインだった。どうしたんですかね、と俺も返答と独り言の間くらいのニュアンスで発語する。その声が少し小さすぎたような気がして、もう一度同じことを言う。

男性は俺が何か言ったことなどどうでもいいらしく、こちらも見ずに、ちょっとはなし聞いてきてやるか、と言ってそちらに向かう。距離感的にこの商店街の人らしい。俺は掃き掃除に戻る。


3-3

表に出ている花に水をやる。紫陽花の鉢がたくさん入ってきていた。紫陽花は水を大量に必要とするので、オケに水を貯めて、そこに鉢をそのまま浸ける。するとぶくぶくと泡が出てくる。それが止まるまで浸けたら、お仕舞い。ジョウロでやるといつまでも終わらないし、この方が効率的だと店長に教わった。


3割ほど終わった頃に社長がやってきて、あーそれはジョウロであげないと、と言う。ちゃんと考えてやれ、と。店頭で作業をしているSさんと一瞬目が合う。俺は、わかりました、気をつけます、と言って裏にジョウロを取りに行く。

ジョウロに水を汲んでいると、Sさんが来て、なんか意味わかんないことばっか言われて、やんなっちゃうよね、ここ、と言って、こちらを探るような目で見る。俺は、そういう時もありますね、と言って笑う。Sさんはじっと俺を見たあと、厨房に行って片付けを始めた。俺は一人残された。水が溢れていて、慌てて止める。俺は少し混乱している。


前にSさんを見かけた時のことを思い出す。俺が店内で作業をしている時に、Sさんはちょうど退勤するところだった。Sさんは店長に、あと5分でキリがいいんでそれまで待ってもいいですか、と少し媚びるような笑い方をして言った。店長は微妙な表情で、まあいいけど、と返した。

その記憶がフラッシュバックする。妙に印象に残る場面だった。俺は、Sさんに対してなんらかの判断を下しそうになるが、やめた。実際、俺はSさんのことをほとんど知らない。


8割くらい終わったところで店長が来て、まだ終わってないの、と呆れたように言う。俺は、すいません、もう少しです、とだけ返す。


3-4

18時半を過ぎた頃、お茶入ったよ、と店長に言われる。店長、社長、Yさん、Yさんの奥さんで店長と社長の娘のMさん、Sさん、俺の6人でコーヒーを飲む。Yさん、Sさん、俺の3人は基本的に黙っていて、家族3人で会話が進む。店内ではいつものように80sっぽい洋楽のカバーソングがかかっていた。その安っぽさがこの時間のコーヒーの高揚感と妙にマッチする。


そういえば上の団地に住んでる認知症Xさんがまたいなくなったらしいよ、とMさんが言う。なんか、ちよっと危ない感じの中学生と一緒に歩いているとこ見たって人がいるらしくて、心配してるっぽい、家族が。店長が眉を潜めて、心配ね、とか相槌を打つ。


俺が認知症になったら殺して欲しいね、と社長が言う。縄をつけられて飼われたりするようなことになったら我慢ならんからな、と言って笑う。それは東北に住む叔父の身ぶりに似ていた。ある年齢以上の男性が、何もかも茶化さずにいられなくなるのはなんでなんだろう、と思う。最近は父もテレビを見ながらちょっと気まずい空気が流れたりすると、すぐに茶化す。


コーヒーを先に飲み終わったので、また店頭の掃き掃除をする。その時になって、さっきの会話が夕方に見かけた男性のことだったかもしれないことに思い当たる。そのことを誰かに伝えるべきか、迷う。会話の流れだったら自然に言えたかもしれないが今から言いに行くほど重要なことかわからない。困って、作業の手が止まる。すかさず店長に、ほらどんどん仕事する、とゲキを飛ばされる。それからそのことはすっかり忘れてしまった。


3-5

裏にゴミを捨てに行く。商店街の隣にあった空き地には2年に及ぶ工事の末、豪奢なマンションが建った。大きな公園も隣接しており、まるで小さな街のようだった。まだ分譲が始まっていないのか、あるいはコロナのせいなのか、人気はなく、映画の撮影所のような場違いな偽物臭さがある。その前を通って、裏手のゴミ捨て場にゴミ箱を運ぶ。聞き覚えのある曲が流れていた。記憶を辿りながらゴミを黄色いカゴに流し込む。それから、気づく。ブルーハーツだった。


「あれも欲しい これも欲しい

 もっと欲しい もっともっと欲しい」


タイトルは分からなかったが、ブルーハーツだ。それはあの偽物っぽいマンションの方から聞こえてきていた。音の出所はそれ以上わからない。


「たてまえでも本音でも 本気でも うそっぱちでも

 限られた時間のなかで 借りものの時間のなかで

 本物の夢を見るんだ 本物の夢を見るんだ」


ブルーハーツを熱心に聴いていたのはも何年も前のことだが、そのとき聞こえたブルーハーツはなぜかとても沁みた。歌詞が、ではない。その情景全体が。出来たての作り物の街と、30年前の「本物の」音楽。地面に仕込まれたライトに照らされたその情景は嘘みたいで、しかし本物だった。


俺は空のゴミ箱を持って、店に戻った。店長がチョコレートをくれる。お疲れ様、と言われる。明日も5時ね、よろしく。俺は、はい、とだけ言う。